ヒトにおける咀嚼運動の再検討
―カイロプラクティックなどを併用した顎関節症の症例研究より
岡永 覚(顎咬合誌第26巻第3号掲載論文を一部改編)
はじめに

図1 咬合器
咀嚼運動は、上顎を固定して下顎を動かす複雑な運動です。歯科医学の分野では、下顎の運動を咬合器(図1)によって口腔外に再現し、診断や治療に役立てる研究がなされてきました。そして、現在では、個々のケースに応じた下顎運動の再現ができるように各種調節性咬合器が考案され、臨床で用いられています。しかし、実際の臨床では、咬合器上にヒトの生理的な機能を再現することが難しく、治療によるトラブルも多いのです。
そこで、カイロプラクティックなどの理学療法を併用した顎関節症治療の症例研究を通じて、その問題点について検証してみました。
症例報告
当院において3ヶ月以上継続して顎関節症の治療を行ったカルテの中から無作為に40症例を抽出しました。
40症例の仔細は、以下の通りです。
性別
男性…15人(35.7%) 女性…25人(62.5%)
年齢
20歳未満…2人(5%) 20~30歳…15人(37.5%) 30~40歳…14人(35%)
40~50歳…6人(15%) 50~60歳…2人(5%) 60歳以上…1人(2.5%)
診査結果
<下顎運動時の偏位>
40人中12人(30%)に偏位が認められました。
右偏位…8人(20%) 左偏位…4人(10%)
<下顎運動時の関節雑音>
40人中34人(85%)に関節雑音が認められました。
左右のTMJ…15人(37.5%) 右のTMJ…12人(30%) 左のTMJ…7人(17.5%)
<下顎運動時の疼痛>
40人中9人(22.5%)に疼痛が認められました。
前方運動時…4人(10%) 右側方運動時…5人(12.5%) 左側方運動時…6人(15%)
<下顎運動時の下顎頭の動き>
閉口時と開口時を触診とX線検査(パルマー法)で比較したところ、40人中40人(100%)に下顎頭の滑走移動が認められました。
<筋肉の緊張状態>
筋肉の圧痛
40人中40人(100%)に圧痛が認められました。
胸鎖乳突筋の圧痛
右…2人(5%) 左…36人(90%) 左右…2人(5%)
僧帽筋の圧痛
右…2人(5%) 左…35人(87.5%) 左右…3人(7.5%)
側頭筋の圧痛
右…3人(7.5%) 左…7人(17.5%) 左右…0人(0%)
咬筋の圧痛
右…6人(15%) 左…7人(17.5%) 左右…0人(0%)
<肩の状態>
40人中37人(92.5%)に肩の高さの差異が認められました。
右肩が高い…1人(2.5%) 左肩が高い…36人(90%)
<脊椎の状態>
視診、触診などにより脊椎(骨盤を含む)のサブラクセーションを調べたところ、
40人中40人(100%)に認められました。
頚椎と胸椎に認められた症例…19人(47.5%)
頚椎と胸椎、腰椎(骨盤を含む)に認められた症例…21人(52.5%)
<歯型模型>
40人中40人(100%)に咬合異常が認められました。
咬耗が認められる…35人(75%)
叢生歯である…14人(35%)
反対咬合である…1人(2.5%)
<精神の健康状態>
交流分析の結果、40人中9人(22.5%)に精神的な問題が認められました。
Case 1
この患者は、他院にてクラウン、床義歯をセット後にTMJの不調を訴えて来院した症例で、顎関節症の治療後、当院にて歯科補綴治療をやり直しました(図2)。
図2
図3
Case 2
この患者は、他院にて治療後、頭痛、歯痛(左下の第1大臼歯)を訴えて来院した症例で、「頭がターミネーターのようになる」らしいのです。交流分析の結果、ストレス的な要因の関与が疑われ、歯軋りが激しいです。左下の第1大臼歯の歯痛は、歯軋りによる咬合性外傷が疑われます(図3)。
Case 3
この患者は、他院にて小臼歯を抜歯して歯科矯正治療をした後、TMJの不調を訴えて来院した症例です(図4)。
図4
図5
Case 4
この患者は、激しい歯軋りによる頭痛を訴えて来院した症例(図5)で、著しい咬耗による低位咬合が認められました(図5右)。他院では、低位咬合を放置したまま治療したようです。上下顎スプリント(図5中央)で咬合を挙上した後、オーラルリハビリテーションを行いました(図5左)。
治療法
1 治療法
1)理学療法
すべての患者に対して、カイロプラクティック、赤外線療法、低周波治療、筋エネルギーテクニックなどの理学療法を行いました。
(1)カイロプラクティック
以上の診査結果にもとづき、術前マッサージの後、サブラクセーションに対する矯正を行いました。
矯正テクニックは、以下のようなディバーシィファイド・テクニックを使用しました。
主に用いたテクニック
頚椎…ツーハンド・サービカル・エクステンション
マスターサービカル(図6)
胸椎…シィッティング・ソラシック・エクステンション:フルネルソン(図7)
腰椎…イリオ・デルロイド
骨盤… イリオ・デルロイド
イシアルデルロイド
ペルビスデルロイド
(2)赤外線療法・低周波治療
顔面部に赤外線を照射した後、圧痛点を参考にして低周波治療を行いました(図8)。 圧痛点は、経穴やトリガーポイントと一致している場合が多いです。
(3) 筋エネルギーテクニック
顔面部に赤外線治療・低周波治療を行った後、TMJに対して筋エネルギーテクニック(MET)を行いました。METは、オステオパシーなどで行われているテクニックで、PNFと似ている治療法です。開口運動、閉口運動、側方運動に対してMETを行いました。
図6
図7
図8
2)歯科治療
すべての患者に対して、理学療法と並行して以下のような流れで歯科治療を行いました。
スプリント…40人(100%)
スプリントの治療後、咬合調整…10人(25%)
スプリント、咬合調整の治療後、補綴治療…1人(2.5%)
スプリント、咬合調整の治療後、歯列矯正…2人(5%)
3)心理療法
交流分析の結果に問題があった9人の中の4人に対して、以下の心理療法を併用しました。
自律訓練法…4人(10%) 薬物療法(トランキライザー)…3人(7.5%)
2治療経過
1)治療期間
40人の治療期間は、以下の通りです。
3ヶ月…7人(17.5%) 4ヶ月…4人(10%) 5ヶ月…3人(7.5%)
6ヶ月…3人(7.5%)
7ヶ月…2人(5%) 8ヶ月…0人(0%)
9ヶ月…5人(12.5%) 10ヶ月…4人(10%) 11ヶ月…3人(7.5%)
12ヶ月…7人(17.5%) 13ヶ月以上…2人(5%)
2)治療経過
40人の治療経過は、以下の通りである。ほとんどのケースで、筋肉の緊張が緩和され、臨床的に病状の軽快が認められました。
臨床的に病状が軽快した症例…39人(97.5%)
臨床的に病状が軽快しなかった症例…0人(0%)
治療が中断し、予後判定ができなかった症例…1人(2.5%)
それに伴い、下顎位が変化し、下顎運動も変化していきました。下顎位および下顎運動の変化の仕方は R型とA型、L型の3つに分かれました。
@
R型(図9)・・・右側方に変位する
A
A型(図10)・・・前方に変位する
B
L型(図11)・・・左側方に変位する
図9
図10
図11
結論
顎関節症の患者に対してカイロプラクティックなどの理学療法を併用した歯科治療を行ったところ、すべての症例で下顎位が変化し、スプリントの調整が必要となりました。R型では左側下顎頭が右側方に変位します。A型では両側下顎頭が前方に変位します。L型では右側下顎頭が左側方に変位します。下顎位が変わるとヒンジアキシスも変化するので、咬合器上の正確な位置に下顎模型を付着することができません。したがって、このような状態下で咬合器上に生理的な下顎運動を再現するのは無理だと思います。
しかし、すべての患者において下顎位が定まらないのではありません。少なくとも、治療を続けた25%の患者がスプリントの調整が必要のない状態に回復しています。この段階の患者は、筋肉の緊張が取り除かれ、筋肉間のバランスが回復している状態で、下顎運動も安定しています。このような状態になると、咬合調整が可能になるだけでなく、ヒンジアキシスを参考に下顎模型を咬合器に付着して生理的な下顎運動を再現することができるようになります。 以上より、咬合器上に生理的機能を再現するには、生体において下顎運動が安定し、再現性がある状態下で咬合採得しなければなりません。
考察
顎咬合学の考え方は、咬合器中心の咬合論に偏重しています。“筋肉間のバランスによりTMJ内において下顎頭の位置が容易に変わりうる”ということにもっと注意を払うべきです。下顎頭の位置や下顎運動は、骨格の影響のみで決まるのではありません。筋肉の影響も受けています。
顎関節症の患者の多くは、筋肉が緊張して圧痛が認められ、筋肉間のバランスが 崩れ、運動障害が認められる状態です。したがって、“下顎が緊張している筋肉の側に引っ張られ、下顎頭の位置がわずかに変位していた”としても何ら不思議なことではありません。
また、舌骨上筋が下顎の後下方に向かって走り、ほとんど舌骨に終わり、舌骨下筋が主に胸骨に、そして一部が肩甲骨に終わっていることを考えると、肩甲部および頚部の筋肉のバランスが崩れると、舌骨が不安定となり、下顎運動に影響を及ぼすことが考えられます。それを示唆する現象は、顎関節症の患者を治療していく過程で観察されます。顎関節症の患者にカイロプラクティックなどの理学療法を併用した治療を続け、筋肉がリラックスしてバランスのとれた状態にしていくと、下顎運動がダイナミックに変化していきます。その過程で、下顎頭の位置およびヒンギアキシスもダイナミックに変化していきます。
従来から行われてきた骨学などの解剖学的アプローチにはおのずと限界があり、筋肉などの状態にも配慮した解剖・生理学的アプローチへの飛躍が求められるようになるでしょう。